アクセス至上主義 〜かつて、テキストサイト界に広まった新宗教〜

アクセス至上主義 :「アクセス数」をサイト運営の第一義に置いた考え方。一般にアクセス数の向上は内容の充実を反映するものと考えられているのに対し、あらゆる手段でもってアクセスアップを図る(アクセス数が第一にあるため、そこに内容が伴う必要は無い)この思考法・方法論は、一部以外には快く思われていない。また、アクセス至上主義者を侮蔑する言葉として「アクセス乞食」という言葉がある。

http://members.at.infoseek.co.jp/hikata/yougo/yougo_01.html

 
 インターネットにより人々は自分の持っている技術を多くの人に見てもらう機会を得た。しかし、殆どの人は公開するに値するような技術を持っていなかった。例えばイラスト技術とか高度なプログラミング技術とかそういった技術は義務教育では教わらない。自ら道を選び努力した人でなければ、そういった技術は持っていない。

 しかし文は誰でも書いたことがあるし、書ける。だれだって小学校で作文を書かされた経験はある。そして文はイラストと違って、上手い下手がはっきりとは見えない。イラストサイトは出来なくても、価値あるソフトウェアを作り公開するサイトは出来なくとも、テキストサイトなら出来ると思った人は多かったのだと思う。
 
 『侍魂』を見たとき、『ろじっくぱらだいす』を見たとき、「これならば自分にも出来る」と思った人は多かったのだろう。だからテキストサイトが一気に増えた。しかし、実際にテキストサイトをやってみたがアクセス数が少ない。ぜんぜん読んでもらえない。
 
 「何故なんだ」
 
 その原因の多くは、
 
 『本人が面白いと思って書いてる文も所詮「自分だけ身内だけが面白いと感じる文」でしかなかった』
 
 ということ。 赤の他人が見て面白いと思わせる文を書くことは、イラストを描いたり、価値あるソフトウェアを作ったりするのと同じように難易度が高い。ようはサイト管理人本人の能力の問題なのだが、彼らはそうは思わなかった。それを認めてしまうことは自分を自分で否定することであり、心が痛い。認めたくない。ここにスキがあった。
 
 アクセス至上主義(アクセス数至上主義)の巧みだったところは、アクセス数が少ない主原因をシステム的な問題としたところにある。つまり「お前の能力が低いからだよ」とはっきりと言うのではなく、「アクセスしてもらうには、リンクをもらわないとだめですよね。あなたのやり方が悪いのですよ。やり方を変えればきっと上手くいきます。その方法を教えるので一緒に実践しましょう!」と言った。この新宗教「アクセス至上主義」は否定されることが多かったが、一定の支持を受けたこともまた事実である。
 
 『堕落誌〜塾憂』がアクセス至上主義を掲げたことをきっかけに「アクセス論」「テキストサイト論(という名の自分語り)」が多く書かれることとなり、無意味な論争が活発となった。アクセス至上主義が流行した時期と、揉め事が多かった時期が一致するのは決して偶然ではない。肯定派も否定派もみんな釣られたんだ。アクセス至上主義に。「アクセス論」「テキストサイト論」を書けばリンクをもらえるので書きたくなる気持ちはわかる。だが「アクセス論」「テキストサイト論」は身内ネタの最たるものだ。テキストサイトを見に来た普通の人は身内ネタの読みにきたのではなく「面白い日記」を読みにきたのではないだろうか?
 
 誰が言ったかは忘れたが、「サイト論が活発に語られるようになったら、そのコミュニティは衰退期に入っている」という言葉は、その通りだなあと思った。